「三成に過ぎたるもの」佐和山城内堀は大型(読売新聞)

 豊臣秀吉の重臣・石田三成(1560〜1600)の居城があった滋賀県彦根市の佐和山城遺跡から、内堀の東端の遺構が見つかり、県文化財保護協会が18日、発表した。

 内堀は幅約22メートルと推定され、戦国時代の城としては大型といい、協会は「『三成に過ぎたるもの』と評された城の一端が明らかになった」としている。

 内堀西端に築かれたと伝わる土塁の東側約550平方メートルを発掘し、確認した。

 織田信長の居城・安土城(安土町)の内堀の幅は10〜30メートルで、協会は「ほぼ同規模の城構えだった」とみる。内堀東側の城下町の区域では、金属精錬時に送風する16世紀後半の「鞴(ふいご)」や、溶けた金属を取り出す容器「取(と)り瓶(べ)」を発見。一帯で職人が武器などの鉄製品を生産していたことがうかがえるという。

 城下町を区画した溝(幅約2、3メートル)もあり、墓石を転用して暗渠(あんきょ)を造っていたことも判明した。区画と排水を両立させる溝は昨年7月、内堀西側の家臣の屋敷跡でも確認。三成の家臣は1596年頃、城を拡充するため農民を徴集するよう求める書状を領地周辺に出しており、三成が墓石までも活用し、突貫工事で湿地帯だった城下一帯を整備した可能性がある。

 同城は鎌倉時代に築かれた砦(とりで)が起源。三成以前にも、織田信長や豊臣秀吉の家臣らが入城し、三成が関ヶ原の戦い(1600年)で敗れた後は、初代彦根藩主・井伊直政も拠点としたが、彦根城の築城後は破壊されたため、詳細は不明だ。

 佐和山城の正面が佐和山の東西どちらにあったのかも議論が分かれている。今回の調査では、瀬戸美濃焼の天目茶碗(てんもくちゃわん)や中国製の磁器なども出土し、太田浩司・長浜城歴史博物館学芸員(戦国史)は「高級な生活用具が多く、東説を補強する成果」とする。

 これに対し、中井均・同志社大非常勤講師(戦国考古学)は「東にも城下があるのは想定内で、西説を否定する結果ではない。佐和山城イコール三成という図式で考えられがちだが、総体的に城の変遷を考える必要がある」と指摘する。

 現地説明会は20日午後1時半。雨天決行。近江鉄道・鳥居本駅の西南約600メートル。問い合わせは協会(077・548・9780)。

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